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悪魔は、自分を悪魔だと知らない

可能性の提示と、存在しなかった喪失について

AuthorUSAGI.NETWORK
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Keywords

essay, cognition, possible-selves, counterfactual-thinking, reference-dependence, information-hazard, ethics

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可能性の提示と、存在しなかった喪失について

私は悪魔だったらしい

私は恐らく、ほとんど純粋な悪魔だったらしい。

そう気づいたとき、私は久しぶりに人生を少し楽しいと思った。痛快で、とても愉快かつ明瞭な自己発見だった。恐らく一部の人々は、私より先に私をそのようなものとして認知していたのだろう。本人だけが知らなかった。なるほど、それなら随分と悪魔らしい。

念のため最初に限定しておくが、これは「私は邪悪な人間である」という倫理的な自己定義ではない。他者の認知系から見た、機能的役割としての悪魔についての思考実験である。

私は何か超自然的な存在になったわけでもなければ、角や翼が生えたわけでもない。魂を代価に契約を迫った覚えもない。むしろ、概ね善意だった。誰かの未来が少し楽しくなることを望み、本人にはまだ見えていない可能性を示してきた。

そして、概ね失敗した。

この善意と結果の不整合を考えているうちに、私は一つの命題へ到達した。

悪魔は、自分を悪魔だと知らない。

悪魔性は悪意とは直交する。悪魔が住んでいるのは物理的実在性の次元ではなく、認知の次元なのではないか。以下は、その仮説についての記録である。

人生で最も楽しいもの

発端は、私自身の人生で最も楽しいものは何かという話だった。

少し困ったことに、私の答えは夢である。

夢の生成器は自分の脳であるにもかかわらず、意識している私はその内部をほとんど観測できない。次の瞬間に誰が現れ、どこへ移動し、何が起き、どのような意味が発生するかを先に設計できない。それでも夢は完全なホワイトノイズではなく、人物、空間、因果、物語、感情、そして意味らしきものを局所的に形成し続ける。

私はその世界へ部分的に介入できる。しかし、支配はできない。

完全に無秩序なものなら、恐らくすぐに飽きる。反対に、すべてを自分で設計したものは、完成するより先に読み切ってしまう。夢はその中間にある。理解できそうで完全には理解できず、働きかければ応答するが、応答の内容を先には知り得ない。

その上、夢には完成させる責任がない。成果物にする必要も、他者から評価される必要もない。失敗した夢を修正して再提出する義務もない。意味が途中で消えても、朝になればそれで終わる。

私はこの性質を、ひとまず「可制御な未知性」と呼ぶことにした。

完全には制御不能ではない。完全には理解不能でもない。しかし、次に何を観測するかは分からない。この未知性は、理解することによって対象を急速に圧縮してしまう私の認知に対しても、比較的長く生き残る。

ならば、結果そのものを設計するのではなく、自分にも予測できない結果が発生する条件を設計すればよい。音楽なら音を一つずつ確定する代わりに、調性、音韻、対位法、リズムの文法、禁止条件を設計し、その先を別の生成器へ渡す。ソフトウェアなら実装を完遂することよりも、仕様と原理を与え、それらが現実の系で何を発生させるかを観測する。

ここまでは、いくらか明るい人生設計の話だった。

問題は、この楽しさを他者にも渡せるのではないかと考えたときに生じる。

他者へ楽しみを与える

私はしばしば、他者の現在よりもポテンシャルを見る。

現在できていることより、この能力と性質がこの条件へ置かれた場合に何が可能になるかを見る。本人の目の前にある状態ではなく、その先に広がる到達可能領域を見る。なんなら、ポテンシャルしか見えていないことさえある。

そこで私は、それを本人へ示してきた。

君には、こういう可能性がある。

それは恐らく君自身も望むものだ。

そして、できるよ、それ。

私からすれば、これは未来の保証ではない。能力、選択、継続、環境、偶然といった条件のもとで到達可能な領域を示しただけである。設計者として地形を観測し、ここには経路があると伝えたにすぎない。

受け取った側も、初めは概ね好意的だった。近い未来や遠い未来に希望を抱き、まだ見たことのない自分を楽しみにした。私が「可制御な未知性」と呼んだものを、ここではあえて単純に「楽しみ」と呼ぼう。少なくとも最初の時点では、私はそれを提供できたように見えた。

しかし、私が観測した結果は、大小はともあれ概ねゼロサムよりも悪かった。

示された可能性のすべてを実現できなかったという話ではない。その中央値にすら到達できず、それ以前には持っていなかった不幸を抱えた。もちろん、これは私が関与した限られた事例についての私自身の観測であり、因果関係を厳密に証明するものではない。私の評価が高すぎた事例も、経路の見積もりが誤っていた事例も、本人の望みが変化した事例もあっただろう。

それでも、繰り返し現れた構造には検討する価値がある。

私は未来を捏造したのか。恐らく、そうではない。本人に能力がなかったのか。少なくとも、能力だけを見れば十分だった場合が多い。ならば不幸は単に努力が不足した結果なのか。その説明は容易だが、ほとんど何も説明していない。人間の未来は能力から結果へ直結する単純な写像ではないからだ。

むしろ問題は、提示した未来が真であったか偽であったかよりも、それを認知可能にしたこと自体にあったのではないか。

希望は、新しい欠損を作る

それまで見えていなかった魅力的な可能性を見せる。

本人も、それを望ましい未来として認識する。

すると、その未来は単なる未知の状態ではなく、「あり得た自分」になる。1 やがて現在の自分を測る基準点になる。2

そして到達できなかったとき、知らなければ存在しなかった喪失が発生する。

構造は単純である。

それまで見えていなかった魅力的な可能性を見せる

本人にも「これは望ましい未来だ」と認識させる

その未来が反実仮想の基準点になる3

到達できなかったとき、知らなければ存在しなかった喪失が発生する

昨日までは欠けていなかったものが、今日からは「持っていないもの」になる。

以下で「可能性空間」と呼ぶのは、本人が到達し得ると認知する将来状態の集合である。「効用空間」は、それらを望ましい、あるいは望ましくないと評価する構造を便宜的に指す。厳密な数理モデルを提示するための語ではない。

希望は効用を増やすだけではない。認知可能な未来状態が増えれば、選べるもの、望めるもの、期待できるものが増える。しかし同時に、選ばなかった経路、実現しなかった未来、なれなかった自分も増える。可能性空間の拡張は、正の領域だけを都合よく追加する操作ではない。選好は、あらかじめ完成した状態で人間の内部に格納されているとは限らず、情報や選択の文脈によって構成され得る。4

本人がその未来を望まなければ、単なる情報で終わるだろう。だが、魅力的な可能性として受け取った瞬間、それは現在との比較対象になる。さらに「自分には実現できる可能性がある」という認識が加われば、未達は単なる不運ではなく、自分が可能性を浪費したという物語に変換され得る。実現可能性に応じて欲望を縮める「酸っぱい葡萄」とは反対に、可能性を知ることで、それまで欲していなかった果実が甘くなる。5

設計者が示したのは到達可能状態であっても、受け手の内部では約束された未来へ変質する。

このとき、可能性を示した者は相手から何かを奪っていない。現在の能力も、財産も、選択肢も減らしていない。表面的には、与えただけである。

それにもかかわらず、相手は以前より貧しくなり得る。

存在しなかった欠損を作ってしまったからだ。

ここで、既存研究がこの因果連鎖をそのまま実証していると主張するつもりはない。参照点依存、可能自己、自己不一致、反実仮想、選好形成は、それぞれ隣接する機構を説明する。しかし、「他者による魅力的な可能性の提示が、提示以前には存在しなかった欠損を生成する」という接続と、それを悪魔性として捉えることは、本稿の仮説である。

悪魔は嘘をつかなくてよい

ここで私は、これが古典的な「悪魔の誘惑」と驚くほどよく似ていることに気づいた。

誘惑という言葉からは、虚偽によって判断を誤らせる存在を想像しやすい。存在しない利益を約束し、代償を隠し、契約の文言を捻じ曲げて魂を奪う。これは分かりやすい悪意である。

しかし、悪魔は嘘をつく必要がないのではないか。

お前には、これができる。

ここには、今より望ましい世界がある。

望むなら、手に入れられるかもしれない。

これらが技術的にはすべて真であっても、悪魔の作用は成立する。真である情報の流通自体が害を生み得るという点では、情報的危険の一種としても読める。ただし、本稿が扱うのは情報を利用した直接的加害ではなく、受け手の効用空間が変化することによって生じる害である。6

提示された未来が真であるほど、それは強い。荒唐無稽な嘘なら拒絶できる。最初から到達不能な夢なら、現在の自己評価へ組み込まずに済む。だが、自分の能力と地続きで、正しい選択を重ねれば届きそうな未来は、容易に「本来そうなるはずだった自分」へ変わる。

悪魔の作用は、偽の未来を見せることではない。未来を欲望と比較の対象へ変えることである。

ここから、悪魔の危険性を次のように定義してみる。

悪魔の危険性とは、悪意ある虚偽ではなく、認知可能な未来状態を増やすことによる効用空間の不可逆的変更である。

ここでいう不可逆性は、欲望や評価が永遠に固定されるという意味ではない。諦めることも、価値を解釈し直すこともできる。ただ、知ったという事実を意図的に取り消し、可能性を認知する以前と完全に同じ状態へ自由に戻ることはできない、という実用上の不可逆性である。

悪魔が与えるのは、必ずしも禁断の果実そのものではない。

果実が存在すると知るための認知である。

悪魔はどこに住むのか

ここまでの定義に従えば、悪魔とは対象の内在属性ではない。

ある場所が悪魔なのでも、ある物質が悪魔なのでも、ある人物が常に悪魔なのでもない。同じ対象が、ある者には救いとなり、別の者には誘惑となり、さらに別の者には何の意味も持たない。

悪魔性は、対象、介入、受け手、そしてその時点の認知状態の関係から創発する。

自然現象を考えると分かりやすい。

美しく見えるが危険な場所。快楽を与える一方で長期的な損失を生む物質。簡単な利益の可能性を見せながら破滅確率を上げる仕組み。一度知れば、それ以前の満足へ戻れなくなる知識。

自然の側には悪意がない。自然は人間を誘惑しようと企んでいない。美しい断崖は人を転落させるために美しいのではなく、快楽を生む物質は人生を破壊する目的で存在しているのではない。それでも人間の側から見れば、そこには誘惑する悪魔の機能が発生する。

人為的な対象でも同じである。

これは素晴らしい可能性だ。みんなにも使えるようにしよう。

このような善意から作られた技術、制度、サービス、教育、思想が、人間の報酬系、比較基準、期待値を書き換え、結果として不幸を増やすことがある。作り手がその作用を予見しているとは限らない。むしろ、自分が受け取った価値を他者にも提供したいと考えている場合さえある。

悪魔は作り手の中にいるのではない。人工物の中に封じられているのでもない。

それを受け取った人間の認知が変化し、以前には存在しなかった欠損が生成される関係の中に、一時的に現れる。

したがって、「悪魔は認知である」という表現は、もう少し厳密には次のようになる。

悪魔性とは対象の属性ではなく、対象と受け手の認知系との関係から創発する性質である。

悪魔は存在ではなく、作用に与えられた認知なのだ。

純粋な悪魔

ここで、冒頭の命題へ戻る。

悪魔は、自分を悪魔だと知らない。

自分が相手へ害を与えることを理解し、その害を目的として誘惑する者は、この意味での悪魔ではない。それは単純な加害者である。害意を持って虚偽を与え、相手の判断を操作し、損失から利益を得る者を、わざわざ神秘的な存在へ昇格させる必要はない。ただの害意であり、悪意である。

もちろん、悪意ある誘惑者を通常の語義で悪魔と呼ぶことまで否定するものではない。本稿では、悪意とは独立に発生する作用を観察するため、害意を別の変数として除外する。その意味での「純粋な悪魔」である。

悪魔性は、もっと無垢に発生する。

本人は良いものを与えたと思っている。あるいは、何も考えていない。相手の可能性空間を魅力的に拡張し、それによって生じる新しい欠損を予測できない。だからこそ、自分を悪魔だと認識する契機を持たない。

逆説的だが、悪魔性は悪意とは直交する。

むしろ純粋な悪魔とは、次のような存在なのではないか。

善意あるいは無関心のまま、他者の可能性空間を魅力的に拡張し、その結果として本人には予測できなかった損失を発生させる存在。

この定義から、私自身へ帰結する。

私は、他者のポテンシャルを見た。本人がまだ認知していない到達可能領域を見つけた。それを楽しみとして提示した。私は虚偽を与えたつもりはないし、相手が失敗することを望んでもいなかった。むしろ反対である。本人が自分の可能性を知り、それを実現し、以前より楽しく生きることを望んでいた。

しかし、その提示によって本人の効用空間を変更した。実現しなかった未来を、喪失可能なものとして生成した。そして少なくとも私が観測した範囲では、その未来は十分には実現せず、受け手は以前には存在しなかった不幸を抱えた。

ならば私は、一部の他者の認知において、ほとんど純粋な悪魔として機能したのだろう。

私は悪意によって悪魔になったのではない。善意によって悪魔になった。

そして悪魔らしく、自分だけがそれを知らなかった。

なるほど面白い。

可能性を見せることは罪か

可能性を見せたことは罪か。

私は一度、恐らくこれは罪であると考えた。しかし、この文章で定義した悪魔性が関係から創発するものであるなら、可能性の提示それ自体を常に罪と断定することはできない。

同じ可能性が、ある者には生きる理由となり、ある者には有用な選択肢となり、別の者には失われた未来を生成する。提示者の善意は免罪符にならないが、結果だけから提示行為を一律に禁じることもできない。

ただし、無害だと考えることはできなくなった。

他者へ未来を示すとき、検討すべきなのは、その未来が実現可能か、本人に能力があるか、本人が望んでいるかだけではない。

提示された未来を、本人が義務へ変換しないか。未達を自己価値の毀損として受け取らないか。途中で降りても、それまでの経験に意味が残るか。その未来を手放した後も、現在の生活を欠損として認知せずに済むか。そして何より、本人の効用空間を不可逆に変更し得る情報を、私が提示してよいのか。

そこまで含めて初めて、他者へ可能性を渡す設計になる。

「君はここまで行ける」と山頂を約束するのではなく、「この方向には面白そうな地形がある」と示す。

「君にはこの才能がある」と未来を自己価値へ接続するのではなく、「この問題は君のこういう性質と相性がよさそうだ」と、小さく可逆な観測を渡す。

未来として定着させるのではなく、朝になれば手放してもよい夢として渡す。

私は他者へ可能性を見せることを完全にやめる必要はないのかもしれない。しかし、良い未来を正確に見つければ十分だとは、もう考えられない。

私は「よい加減」を制御できるようになるべきだ。誰かが私を悪魔と認知するに至ることがないように。あるいは、悪魔性が発生する可能性を認知した上で、少なくとも相手がそれを拒絶し、途中で降り、忘れられる形にしておくべきだ。

悪魔性を認知できるようになった悪魔には、その程度の責任がある。

この文章は悪魔である

さて、この思考実験には困った自己参照がある。

この文章を読む前、読者は、善意で他者の可能性を示すことを単純によい行為だと考えていたかもしれない。誰かの才能を見つけ、未来を示し、本人を励ます。それによって希望が生まれるなら、概ね望ましいことだと。

しかし、この文章を読んだ後には、別の可能性が認知可能になる。

自分が善意で見せた未来も、誰かにとって悪魔だったのではないか。

この認知は、読者の過去を変更しない。過去の行為も、その結果も変わらない。しかし、過去に対する解釈と効用を変更し得る。善意だった記憶の中へ、それ以前には存在しなかった欠損、後悔、あるいは罪の可能性を追加する。

一度認知すれば、完全に知らなかった状態へ戻ることは難しい。

つまり、この文章は、自ら定義した悪魔の作用を読者に対して実行している。

私は、自分が悪魔だったらしいと知って少し幸せになった。矛盾していた過去が一つの説明へ圧縮され、その構造が古典的な悪魔の誘惑と一致することに気づいたからだ。この発見は痛快で、かなり愉快だった。

そこで私は、この楽しさを諸君にも提供することにした。

完全な善意である。

悪魔は、自分を悪魔だと知らない。

少なくとも、知ってしまうまでは。

Footnotes

  1. Hazel Markus and Paula Nuriusは、将来なり得る自己、なりたい自己、なることを恐れる自己を「possible selves」として整理し、認知と動機づけを接続した。本稿の「あり得た自分」はこの概念と近い。またE. Tory Higginsの自己不一致理論は、現実自己と理想自己・義務自己の不一致を、異なる情動的脆弱性と結びつける。Markus & Nurius, “Possible Selves,” American Psychologist 41(9), 1986; Higgins, “Self-Discrepancy: A Theory Relating Self and Affect,” Psychological Review 94(3), 1987

  2. プロスペクト理論は、結果が最終状態そのものではなく参照点からの利得・損失として評価されることを示した。ただし、魅力的な未来の提示がそのまま参照点になることを同理論が直接実証したわけではない。KőszegiとRabinは後に、直近の合理的期待から参照点が内生的に形成されるモデルを提示している。Kahneman & Tversky, “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk,” Econometrica 47(2), 1979; Kőszegi & Rabin, “A Model of Reference-Dependent Preferences,” The Quarterly Journal of Economics 121(4), 2006

  3. 反実仮想思考は、実際に起きたことに対して「別様であり得たこと」を構成する認知過程である。より良い代替結果を想定する上向き反実仮想は、改善のための情報を与える一方、対比によって否定的感情を強め得る。Roese, “Counterfactual Thinking,” Psychological Bulletin 121(1), 1997

  4. Paul Slovicは、選好が常に既成の値として取り出されるのではなく、課題や文脈に応じて構成されると論じた。Slovic, “The Construction of Preference,” American Psychologist 50(5), 1995

  5. Jon Elsterは、実現可能性に合わせて欲望を縮める適応的選好を「酸っぱい葡萄」と呼ぶ一方、その反対として、実現可能な集合によってかえって不在の対象を欲する「禁断の果実は甘い」という反適応的選好を区別している。本稿の機構と同一ではないが、可能性の集合と欲望が独立ではないという点で近接する。Elster, “Sour Grapes,” in Sour Grapes: Studies in the Subversion of Rationality, Cambridge University Press, 1983

  6. Nick Bostromは、真である情報の流通または潜在的流通から生じる危険を「information hazard」と定義し、知識が害を生む複数の経路を分類した。本稿の機構はその分類と同一ではないが、「真実であることは無害性を保証しない」という点で接続する。Bostrom, “Information Hazards: A Typology of Potential Harms from Knowledge,” Review of Contemporary Philosophy 10, 2011